岩倉忠在地町
2009年 11月 28日
きのうは定期検診で 大阪脳神経外科病院へ行きました。
女房タクシーで早く行ったので 早く問診も終わりました。
急に思いついて、行ってみたかった岩倉忠在地町へ出かけました。
阪急庄内駅から梅田に出て、地下鉄で淀屋橋、京阪電車で出町柳終点下車。
出町柳から叡山電鉄鞍馬線で岩倉下車です。
写真は いつものように撮った順番に並べております
1
神戸線
受付に診察券を出したあと 病院のまわりをプラプラ散歩です。
まだ9時前です。
阪急神戸線の踏切がありました。
この写真を撮っているとき、「岩倉へ行ってみよう」と思いました。
2
いつもの路地
血液検査がなかったので10時前に問診も終わり
阪急庄内駅までプラプラ歩いて行きます。
いつも撮る散髪屋さんのある路地です。
3
金屏風
はいっ、もう京阪電車出町柳駅終点です。
牛車がお姫様?を引いております。
馬さんもおります。
なぜか昔の阪急百貨店の 鉾(ほこ)なんかをあしらった包み紙を思い出しました。
4
本線電車
叡山電鉄の出町柳駅です。
八瀬・比叡山口行きの電車が戻ってきました。
わたしはこれではなく、鞍馬線に乗って岩倉に行くのです。
5
元田中
「次は 元田中(もとたなか)」との 車掌さんの声。
う~ん、40年ぶりです。
この辺りはあまり変わっていませんが、電車が全く変わっておりました。
なんじゃ、この電車のスマートさは (涙)
6
駅出入口
降ります。
岩倉駅は無人駅になっておりました。
ホームに降りた車掌さんに切符を渡して外に出ます。
むかしはどうだったかなぁ~
駅員さんが居たようにも思いますが 記憶にありません
7
岩倉川と鞍馬線電車
電車の色は変わっておりました。
むかしの色は忘れましたが こんな色ではなかったですね。
岩倉川は変わっておりませんでした。
8
岩倉忠在地町
駅からキョロキョロしながら むかし住んだ下宿屋さんの方へ歩きます。
この景色に見覚えがあります。
下宿屋さんの建物はきれいになっていましたが。
ここらあたりまで 時々銭湯に入りに来たなぁ~
9
袖岡家
ありませんでした。
Tさん、Y君とわたしの3人で住んでいた 離れはなくなって ガレージになっていました。
でも本家の袖岡(そでおか)家は きれいになってありました (嬉)
大学へ行かないで毎日本を読んでいたTさん。
「愛と死をみつめて」という本と 殆ど同じ境遇だったTさん。
階段を登ったところの四畳半の部屋にTさんが、右の部屋が Y君とわたしの六畳間でした。
1階は物置みたいになっていた、忠在地町バス停から1秒だった あの離れ (涙)
10
壁
袖岡家の壁です。
きっと白いのは最近塗ったものです。
我々の頃はその下に塗ったドロ壁か あるいはもう一つ下の土だったのでしょうか (涙)
11
角をまがって
袖岡家は角にあり 北に曲がると岩倉実相院、真っ直ぐ行くと八瀬遊園から比叡山に行けました。
この写真は北にまがった方です。
ここはまだ袖岡家だと思います。
土蔵の2階の窓が開いております、「しろばんば」の「洪(こう)ちゃん」が顔を出しそうです。
12
岩倉川
岩倉川です
13
岩倉病院
嵯峨美智子という女優さんをご存知でしょうか?
彼女は40年まえ 精神病でこの岩倉病院に入院しておりました。
ある冬の夜、はだしの美女が下宿のTさんの部屋にあがって来て
「嵯峨美智子です。市内に帰るタクシー代を貸してほしい」 と言いました。
お金の無いTさんは、誰かにお金を借りて 嵯峨さんに貸してあげたということでした。
うえの写真ではホテルのようにきれいですが
昔は窓に鉄格子の入っているのが見られました。
14
下宿のこと
わたしが初めて下宿した下宿屋さんです。
極貧だったわたしが 大学の下宿案内で一番安かったのを申し込んだんです。
2階廊下の突き当たりの 変形三畳の部屋でした。
1ヶ月3千円でしたが、大家のおばさんと あんまりウマが合わず
しばらくしてY君から 「六畳で相部屋になるけど来ないか」と誘われて
1ヶ月6千円(二人で)で すぐ近くの袖岡家の離れに移ったのでした。
15
比叡山
木野にあった精華短大の美術部と合ハイ(合同ハイキング=今では死語)をしたら
べっぴんのおねぃさん二人が岩倉に下宿していることが判り、
以降彼女たちの卒業まで良いおともだちになったこととか。
舞鶴のHさん、唐津のMさん あなた方の昔の下宿も探してみたけど わかりませんでした。
八坂神社の下の親戚に下宿していたN君と 岩倉に下宿していたS君とわたしの3人で
ギターのバンド 「岩倉マイナーズ」をつくり 頑張ったこととか
窓を開けて この比叡山を望みながら ギターを弾いたこととか
結局3年間もドイツ語を勉強した(普通の人はドイツ語は2年で修了です)こととか
そんなことを思い出しながら歩くうちに 岩倉駅に戻ってきたのでした。
よく行った駅前の 大泉(だいせん)食堂もなくなっていました (涙)
16
駅にて
岩倉駅に戻りました。
すごい美人がおりました。
スルッとKANSAIを撮るふりをして 一枚パチリ
おねぃさん、すんませ~ん m(_ _;)m
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撮影データー
■ 2009年11月27日
■ D700 + AF 28-105mm
■ 絞り優先オート / プログラムオート
■ ISO 800
■ 露出補正: マイナス1/3EV ~ なし
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40年ぶりの岩倉でした
あまりに懐かしくて 30分程度の電車往復をのぞけば 岩倉にいたのは1時間半ぐらいだったでしょうか
2枚目、柔らかい光が射しこむ下町の風情がいいですね、
床屋の看板が印象的ですね。
12枚目、明るい日差しが素敵ですね。
13枚目、素敵な横顔に惹かれました、明るい感じが素晴らしいです。
10、11枚目、思い出の袖岡家があってよかったですね。(^^)
岩倉に下宿なさっていたんですね。
私は出町柳の近くの川端通りに住んでました。
その前は吉田中大路町の3畳間、2万円の仕送りで家賃4800円でした。
月半ばにはお金が無くなり、空腹に苦しんだり・・・^^;
懐かしいですねー。
それにしても、写真の電車はあたらしいですね。
きっと最新型なんですね、う~んっ。
5~7、の電車は紅葉のトンネルなどを車窓から楽しめる、
京福電鉄のほこる人気編成のきらら号ですね。
皆さんが、ダイヤを調べて乗ろうとされる電車に偶然?乗れる、
nakajimaさんの運気の強さが分かります。
昭和40年~43年ごろの大卒の初任給は2万~2万3千円位、
現在の大卒の初任給19万5千円の約9分の1になります。
下宿代の3千円~6千円を9倍すると2.7万~5.4万ですが、
賃貸情報(京都・岩倉)を調べてみますと、
3.6万で6畳+ユニットバス、
5.4万あれば8畳+バス・トイレ(別)+キッチン、が借りられます。
病院の検診にIXYならともかく、D700を持ち出すとは確信犯ですね(^^♪
2枚目の路地、こだまという文字にピントを合わせたんですが
おばさんたちが気になってカメラを動かしたら ご覧のように傾いてピンあまで~す。
12枚目の岩倉川、むかしはこんな光景に気がつかなっかたです (^^)
16枚目べっぴんさんでしょう (^^)、旅人にしては軽装だし 岩倉のひとでしょうか。
袖岡家は忠在地町では大きな家だったので きっとあると思っておりました。
われわれが住んだ離れはなくなっておりましたが いろいろなことを思い起こしてくれました (涙)
はいっ、3年半ほど岩倉に住んで 最後の半年ぐらいが千本丸太町でした。
わたしは事情があって仕送りは無しでした。
ときどき おくくろがヘソクリを送ってくれました。
あとはぜ~んぶアルバイトをして卒業したんですよ (^^:
いつも空腹でしたねぇ~、それで高島屋のテンプラ屋さんでアルバイトしていた頃
やはり極貧の岩倉仲間がご飯だけを炊いてわたしの帰りを待っておりました。
わたしがいつも売れ残ったテンプラをいっぱい貰って帰るのを知ってたんですよ (^^:
下宿代は仕方なく払いましたが、京福電車の定期代は高かったので
中古のカブ号を買って 電車にはあまり乗らなかったで~す。
おぉ~、そう言えばこの電車は京福電鉄という名前でしたねぇ
そうですか、きらら号でしたか。
でもわたしは むかしの両側に座って前のひとたちと観察し合う
普通の車両に乗りたかったんです。
乗客もむかしのように、買い物のおばさんたちと学生ばかりと思ってたんですが ・・・ (涙)
物価指数は なかなかあてにならないものですよ。
タバコのハイライトが たしか1箱 80円
王将のギョーザが たしか1人前80円
わたしの1時間のアルバイト料 きっと150円~220円 (1回生~4回生)
ぐらいだったと思います。
風呂は銭湯に 2週間に1回ぐらい行きました。
カメラは minolta SR1 を持っていましたが、4回生になるまでは あまり使った記憶がありません。
>nakajimaさんの運気の強さが分かります
いやっ、そんなことは絶対にありませんで~す (^^:
私も友人先輩が、松ヶ崎の橋のたもと、三宅八幡の幼稚園、
同志社のグランドの東側に下宿していて、岩倉八幡前ではよく飲みました。
残念ながら線路を越えて、忠在地町実相院には行った覚えはありません。
京都のチベットがいまが地下鉄が通る街。
昭和50年半ばまでは、岩倉の下宿街は同志社立命京大京産大と賑わって
いたようですが、いまはどうなんでしょう。
同志社は地下鉄で田辺にもいけそうですが、広小路を去った立命勢は完全に去ってしまったのでしょうね。
4枚目 元田中付近は、たしかに変わりない感じですね。
最後に住んだ御影通りの下宿は今もありますが、鹿ヶ谷や千本今出川の下宿は
無くなってしまいました。
タバコのハイライトが たしか1箱 180円?
王将のギョーザが たしか1人前100円~120円
わたしの1時間のアルバイト料 450円
4畳半一間の下宿 1万3千円 だったかな。
いやっ、わたしも涙がちょちょぎれております。
八幡前の中華料理の店、岩倉の食堂が閉まった夜12時ころ 歩いてよく食べに行きました。
ここも電車から見てみましたが なくなっていたようです (涙)
岩倉に下宿生の姿は殆ど見かけなかったです。
金曜日の昼ごろだったからかも知れませんが ・・・
元田中や茶山あたりまでは むかしから家がいっぱいで
今回もそんなに変わった感じはしませんでしたが
一乗寺より先は 40年まえとは全く変わっておりましたね。
わたしが就職した昭和47年あたり以降、人件費はぐんぐん上昇していきましたが
食べ物なんかはあまり上がらなかったように思います。
とにかく 苦しい学生時代を過ごしたもので~す (^^:
中島さん、大変な学生時代をすごされたんですね。
同じく苦学生だったうちの父の学生時代と重ね合わせながら読んでしまいました。
それとはまったく比べ物になりませんが、クラクフでの寮生活も思い出しましたよ。
1年生の時は3人部屋で、トイレ、シャワーは隣室と共同だったから、女学生6人で
同じ洗面所を使うことになり、朝は戦場でした。
日本と違って、トイレとシャワーが分かれていないので、一人がシャワーを
浴びると、他は用を足すことすら出来ない。勉強するのさえ大変なドタバタ
生活でしたが、今に思い出すと懐かしいですね。
当時のルームメートの皆さんとはまだ交友を保っていらっしゃるのでしょうか。
中島さんの青春貧乏物語、もっと知りたいです。
ははは、赤貧だったことばかり書きましたが 楽しい思い出がいっぱいです。
3回生のときに大学が封鎖されて、勉強とアルバイトだけの2本立ての生活をしました。
4回生になると、実験結果やレポート作成と卒論の準備などで忙しくなり
なつかしい岩倉から 大学に歩いて通える千本丸太町の文房具屋さんの2階に変わったのでした。
寮生活、わたしもやりましたよ (^^)
共同トイレ、共同風呂 どこでも同じでしたですね~
10年ほど前に、科の有志が京都で1泊の同窓会を開いてくれて わたしも参加しました。
30人ぐらいのおっさんが集まり昔話しに花が咲きました。
岩倉マイナーズのメンバーとも 久しぶりに合ったのでした (^^)
下宿ですね。私は経験がありません。大学の友人でも下宿。うーん
大家さんのおうちの2Fってのはあったようですが、私の部屋より
広かったような。。。20年まえですけんど。
40年まえは私4才。家からはSLデゴイチの汽笛と新幹線のビュンという音が遠くで交錯していました。
通っていた幼稚園はいまでもありますが、立派な三重の塔がたち。
いま撮った写真を40年たってみることはできるのでしょうか。。
電車もスマートになり
下宿っていまでもあるのかな、あっても少なくなっているでしょうね。
今は学生マンションがたくさんできているから…。
岩倉は息子の友人もたくさん住んでいました。
昔の思い出の地を歩くのも面白いでしょうね。
わたしらの学生時代は みな下宿でした。
三畳間、四畳半の何も無い部屋で腹を空かしながら過ごしたものでした。
もちろん金持ちの息子は たっぷり仕送りをしてもらって 六畳間だったかも知れませんが (^^:
40年まえ、わたしは21歳で 窓から比叡山を眺めておりました。
やめましょうね、昔を懐かしがるのは おっさんのすることですね。
いま撮った写真、40年後は わたしはダメですが qchanは十分見れるでしょう (^^)
このあいだ読んだ新聞記事に 文明国の若人の寿命はすぐ100歳になるって書いてありましたぁ~。
はいっ、時代は変わりました。
毎日会社で若いひとにはさまれて仕事をしておりますと あまり感じませんが
久しぶり(40年ぶり!)に岩倉なんかへ行きますと 変わったことがひしひしと感じられます。
8枚目の写真の家は 下宿屋さんだと思いますがどうでしょう。
でも少なくなっていますね。
むかしは 岩倉といえば下宿屋さんばかりでしたけど。
昔の思い出の地を歩くのは 1回で十分だなと思いました。
やはり 胸の奥にしまっておく方がいいのかも知れませんね (涙)
へへへ、2枚目の庄内の「いつもの路地」を撮ってから
出町柳の「金屏風」を撮るまで 約2時間経ってま~す。
でもブログでは一瞬です、早いでしょぉぉぉぉぉぉ~ (^^)
でも、帰りが遅かったり、たまに帰ってこなかったりで迷惑をかけっぱなしとなり、2年目からアパートへ引っ越しました。
6畳・トイレ・台所(1畳程度)で3.5万円だったかな?
風呂はもちろん銭湯へ...(毎日は行けなかった)
洗濯はめいっぱい溜めてコインランドリーへ...
30年前のことですが、今も残ってるかなぁ~ 東京じゃまず無理でしょうねぇ。
今度、東京出張があれば確かめに行ってみたくなりました。
> 昔を懐かしがるのは おっさんのすることですね。 ← 私、おっさんですから~
えへへ、わたしも電車や汽車を撮るのは好きなんですが
名前や型式なんか何にも知らないですよ~。
ネットで調べて叡山電鉄って書いていますが むかしは京福電鉄と呼んでいました。
5枚目、7枚目の電車ですが 窓が大きく明るくて良いのですが
わたしは昔の暗ら~いチンチン電車のようなのを期待しておりました (^^)
>6畳・トイレ・台所(1畳程度)で3.5万円だったかな?
う~む、やっぱり東京はなんでも高いですねぇ~
わたしが就職した昭和47年(1972年)の学卒の初任給は4万円が普通でした。
3.5万もアパート代を払ったら ・・・(涙)
そうですねぇ、一度むかし住んだ場所に行くのも良いですね。
でも何度も行くものじゃないです。
おっさんは、振り返らず 泣かないで 歩くんだ ← こんな歌がありましたね (^^)
今日はakiraさんの青年時代をちょいと垣間見たようで、とても楽しかった!(笑)
若い時って、おカネが無くてもどーにでもなるみたいなガッツがあるからでしょうか、
後になって思い出すと、どんなに辛かったと思うことも懐かしさと微笑ましさが大半ですね。
出町柳駅というところには、こんなに立派な金屏風があるのですか?
これはもう芸術品ではないですか! こういう絵、好きなんです。
こんな絵が駅にあったら、待ち合わせ場所は必ずこの絵の前にします。(笑)
岩倉実相院は初めて知りましたが、随分と歴史があるお寺なのですね。
こういう物が残っている所っていいなぁ、と思います。機会があったらゆっくり訪れてみたいです。
つらいこともありました。
お金が100円しかないのに 「おいっ、nakajima、メシ食いに行こう」と言われ
「いや、僕はもう食べた」と言いながら 本当はお腹がグーって鳴っていましたよ (涙)
そんなこともありましたが、いま思うと楽しかったなぁと感じます。
anri さんがおっしゃる通り ただ若かったからですね。
金屏風、京阪電車のネオン看板のひとつです。
となりのネオン看板は がっくりくる様なやつでした (^^:
岩倉実相院、記事には書いておりませんが むかしは訪れるひともまれでしたね。
この日はちょっと行ってみましたが、観光バスが連なって駐車し大変な人出でした。
でもここのモミジは綺麗ですよ。
時代は違いますが、私もその頃が一番楽しかったです。
東大阪に4年間、3度住むところを代えましたが今はどうなってるんでしょうねぇ。
久しぶりに行ってみたくなりました。
毎日通ったお好み焼き屋とか銭湯とか、まだあるのかなぁ。
まぁ、たかが25年前なのでnakajimaさんとは違いますけど。(^_^;)
タイのラヨン県のホテルからです。
むかし住んだところへ行きますと、その当時のいろいろな事を思い出しますねぇ。
いなもくさんも、一度行ってみてください。
なにっ、毎日お好み焼きと銭湯?
むかしから ええ生活してはりましたんやねぇ~ (^^)
しばらく前に山田省吾さんから このブログに連絡を頂き
省吾さんが 今でも昔の仲間とやりとりされているのを知りました。
省吾さん達が 小倉さんのところへ遊びに行かれたらしいですね。
どうされていますか?
このブログにコメントで連絡お願いします。
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